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ZIG ZAG WALK

おもしろきことは,よきことなり。

【福岡妄想日記・原西】私を救ってくれた,酒場のランチ

福岡妄想日記

 パシャパシャ。

 少し遅れて,足先に冷たい感触。

 季節はずれの暖かさが続いた数日前から,一気に秋を通り越して冬になったような昼下がり。空は低く,雲は薄暗い。出勤したときは雨の気配などなかったのに,会社に着いた途端に久しぶりのまとまった雨が届いた。今は小雨になっているけれど,歩道のコンクリートは吸い込み切れない雨水を地面に残したままだ。

 こんなことならブーツにしておけばよかったのだ。傘も持ってこなきゃいけなかったのだ。いや,そもそもこんな時間に帰らなければよかったのだ。いや違う。チーフが悪いのだ。チーフがわかってくれないからこんなことになるのだ。

 足元を見る。水たまりに浸かって濡れたベージュ色のパンプスの内側から寒さが伝わってくる。向かってくる風も,初めての冬のボーナスで買った,ピンクのチェスターコートの隙間から細々と,だけどするすると入り込んできて体温を奪っていく。

 このままじゃ風邪ひいちゃう。早く帰ろう。

 水たまりをよけつつ,両足をいつもより速く進めようとする。が,左肩にかかった中身いっぱいのずっしりとしたトートバッグのせいで,体が思っているより前に行かない。

 早く帰ってお風呂に浸かってじっくり温まって,あがったらお湯を沸かして甘いココアをたっぷり入れて,ここのところの残業でずっと見ていない撮り貯めた恋愛ドラマを見ながらゆっくりするんだ。そしてカモミールの甘いアロマを炊いた加湿器にスイッチを入れてふかふかのベッドにもぐりこんだら,部屋の電気を消してお気に入りの音楽をかけたら,ゆっくりと目を閉じて,どっぷりと朝まで寝てやるんだ。最近は土日も出勤していたし,睡眠が足りてなかったのだ。そうだ。だから上手くいかなかったのだ。こんなに残業させるのが悪いのだ。そうだ。チーフが悪いのだ。全部チーフが・・・・・・。

 キキィー!

 突然の甲高い音に気づき,足元から目線を戻して前を向いた瞬間,目の前に自転車が飛び込んできた。左側に避けようとしたが,足元のバランスと重い荷物のせいでよろけてしまった。ドスンという音とともにトートバッグから雑誌が飛び出して歩道に散らばった。地面についた左の掌から遅れて鈍い痛み。

 立ち上がろうとして,ピンクの袖が泥水を吸って変色していることに気づく。

 ああ! 買ったばかりなのに!

 じんじんとする左手と震える右手で散らばった雑誌をトートバッグにおしこむ。十数冊あるうちの何冊は水でふやけてしまった。

 もう! なんでこんなについてないんだろう。

トートバッグを肩にかけたところで思い出し,たった今歩いてきた道の方へ視線を向ける。ぶつかりそうになった自転車は何の謝罪の言葉もなく,遠く黒い豆粒になっていた。

 なんなの! みんなして,ひどい・・・・・・。

 小雨は変わらず降り注いでくる。寒さと痛さと運の悪さ,そして人の冷たさに,涙が出てきて視界が滲んできた。

 目をぎゅっとつむり,右手の甲で拭う。

 とにかく,帰ろう。

 

 そう思って家の方へ振り返ったところで,1つの立て看板が目に入ってきた。

原通りの有田の交差点を,南にちょっと下っていった先。

 人の腰高くらいの木製の黒板に,ランチタイムサービスの文字。その背後にはベージュ色の2階建ての建物。

 こんな店,こんなところにあったかな・・・・・・。

 平日の昼間にはこんなところにいることはないし,休日は閉まっているのだろうか。今の家に住みはじめて8か月近く経つが,目の前の建物はこれまでの記憶の中には浮かんでこなかった。

 通りに面した大きな窓をとおして中の様子がうかがえる。テーブルが2つ,カウンターが数席見えた。落ち着いた雰囲気のこじゃれたお店。黒板に書かれたお店の名前からして。夜はお酒を出すお店のようだ。

 昼のこの時間も開店しているようだが,客の姿は見えなかった。

 ふいに,右ポケットから振動が伝わってくる。ピンクのケースが目印のスマートホンを取り出し画面に目を落とす。

 会社からだった。

 画面を見ていると,数時間前の光景がありありと目の前に浮かんできた。

 明かりを落とした部屋の壁面に映し出される資料。沿って流れる期待と不安に満ちた声。視線の先には静寂と腕組するチーフの姿。

 「今回も,ちょっとダメだな」

怒りと悔しさがこみ上げてきて,ぬぐったばかりの目頭が再び潤んできた。

 振動を無視してポケットに放り込んだところで,

 きゅるるるる。

 お腹がなった。朝食べてなかったんだ。そういえば,昨日の昼から食べていなかったんだっけ。だいたい今日の昼は,頑張った自分へのごほうびとして,2週間前にオープンした大名のフレンチのお店に行く予定だったんだ。そのはずだったのに・・・・・・。

 きゅるるるる。

 途端に全身の力が抜けそうになった。その場にしゃがみこみそうになる。さすがに何か食べないと倒れそうだ。

 先ほどの黒板に目をやった。ちょうどランチタイムサービスの時間だ。

 この際だから,入ってみよう。

 黒板の横の入口のドアノブに手をかける。回して押すと,中から暖かい空気が漏れ出してきた。

 店内は外から覗き込んだとおりの空間だった。そんなに広くはない。見えないところにあった2席のテーブルを足しても,20人も入ればぎゅうぎゅうだろう。カウンターの天井部分にも大きな黒板が掲げられてあって,たくさんのメニューと金額がびっしりと白色のチョークで書き込まれている。流れるBGMはゆったりとしていて,どこか南国を思わせる。奥にはクラシックギターが1つだけぽつんと置かれていた。

 きょろきょろと眺めていると,厨房から男性が出てきた。

 「いらっしゃい」

 30代前半だろう。半袖姿のその男性は,柔らかい口調で迎えてくれた。

 軽く会釈をして,無言のままカウンターの真ん中の席に座った。財布が入ったかばんを座席の下に置く。自分以外にお客がいないことを確認して,トートバッグを隣の席のカウンターに置こうとしたところで,左手の汚れに気がついた。

 「・・・・・・すみません。お手洗いをお借りしていいですか?」

 「後ろの奥の方です」

 

 流水につけてみた。冷たさに加え,鋭い痛みの後にじんじんとした鈍い痛みが続く。流し終えるとじわりと赤く滲んできた。再び水で流す。2,3度やっているうちに,血は止まった。

 ついでにコートの袖に水をつけハンカチで軽く拭う。薄くはなったが汚れが残ってしまっている。即刻クリーニング行きだ。

 トイレから戻るとカウンターに座った。やはり店内には私以外に客はいなかった。通りに面した大きな窓の向こうは暗く,人通りはなかった。

 「今日は冷えますね」

 カウンターの向こう側から男性が声をかけてきた。

 店員も彼以外には見当たらなかった。おそらくコック兼店長なのだろう。

 「・・・・・・そうですね。雨が降ってしまって,さらに寒くなった気がします」

 「ここのところずっと暖かい日が続いていたのに,急に寒くなりましたね」

 「そうなんです。秋が全然なかったですね」

 「ここ数日で,厚着の人が増えましたもんね」

 男性が大きな窓の方を向きながら呟いた。

 「寒いのが苦手なので,仕事に行く人を見ると大変と思いますよ」

 そう言いながら半袖から延びる両手を厨房台につく彼を見て,思わず吹いてしまった。

 「ぷはっ」

 「???」

 男性は理解していない様子だった。

 店内はほどよく暖かい。コートを脱いで隣の席にかけ置いた。

 「・・・・・・半袖の人が寒いのが苦手とかいうと,ちょっと笑っちゃいます」

 少し間があってから,あっ,と気づいた素振りを見せる。

 「いやー,コンロの前むちゃくちゃあついんですよ」

 厨房の奥の方を覗き込む。といっても目の前の男性がいる場所から4,5歩の距離だ。壁には無数のフライパンや中華鍋がぶら下っていた。

 「暑いのも苦手なんで,しょうがないから冬でも半袖なんです」

 男性は微笑みながら答えた。

 それなら火を使わない料理しか出さないとか,そもそも料理人にならなかったらよかったのに。

 男性の表情を見ていると,料理が好きだからやっているんだろうなと感じた。

 「ところで,何になさいますか?」

 プラスチックできたメニュー表を渡してくれた。白色の紙に黒色で印刷されたそれは,自宅のパソコンでつくったようなレイアウトと飾り気のない文字が並んでいた。

 メニューを読もうとしたところで,隣の席においたコートから鈍い振動音がした。

 そのままにしておこうとも思ったけれど,確認すらしないのも変に思われたりしないかと思い,コートを手繰り寄せる。取り出してみると,想像していた職場の電話番号ではなく,職場の先輩の携帯の電話番号だった。

 どうしよう・・・・・・。

 人想いの,面倒見のいい先輩のことだ。きっと心配してくれて連絡してくれているに違いない。まゆを寄せる不安げな表情が浮かぶ。

 次の瞬間,あの姿,あの言葉が割り込んできた。

 「独創的じゃない」

 喋り終わり,照明が戻ったところで,腕組みした姿から発せられた一言。

 心の中で私は倒れ込んだ。

 昼も食べずに仕事して,毎日残業して,家に帰っても考えて考えて出したものなのに。

 1度目はよかった。初めてのことだったし,厳しさを知ることができたから。2度目もいい。まだ慣れていないし,思いが至らなかった点もあっただろうし。3度目は・・・・・・,まだいい。あの仕事ができる先輩だって,私だって最初は3回ダメ出 しされたよって言ってくれたから。

 でも,4度目ともなると,さすがに辛い。苦労して積み上げて完成したドミノが,スタートを目前にトラブルで勝手に途中で倒れ始めるように,一からやり直しになることの徒労感と,認められない事実から推測される自分の能力のなさに,投げ出したくなる。自信,気力,意欲といった全ての前向きな気持ちがガラガラと崩れ,逃げ出したくなる。

 いや,正確には逃げ出してしまったんだけれど。

 

 スマートホンは電話に出るまで震え続けようとしているように思えた。

 もう,ほっといてよ・・・・・・。

 私は,振動が伝わらないようにできるだけポケットの奥底にねじ込み,コートをぐるぐるにまいてから隣の席へと放り投げた。

 BGMの裏で細々とした重低音が店内に漏れ続けていたが,顔をあげず俯いたまま座っていると,急に途絶え店内は元の雰囲気を取り戻した。

 「・・・・・・お仕事,大変そうですね」

 はっとして,見上げた。

 男性はカウンターに両手をついて,私の方を見ていた。いや,目線は少しずれていて隣の席に置いてあったトートバッグに向いていた。

 今気づいたが,隣の席に置いていたトートバッグからは,いたるところに様々な色のふせんがついた雑誌が飛び出していた。

 「お昼でも電話がかかってくるなんて,ほんと大変ですね」

 飛び出していた雑誌の束を,そそくさとトートバッグの中に押し込む。

 「毎回,締切りがあるから大変でしょう。私なんか時間にルーズなので,無理だなあ」

 「えっ?」

 再び男性の方を見あげる。あれっと思ったような顔つきだった。

 「いや,その,取材と原稿の締め切りに日々追われているのを想像したら,大変だなあと思って」

 無造作に入れ込んでぱんぱんになったトートバッグを足元に置きなおした。

 「何しているようにみえます?」

 「えっ,雑誌の記者じゃないんですか?」

 ああ,そう思っていたのね。

 「ええと…,ちょっとした商品の企画やっているんです」

 「あ,そうなんですか。それは失礼しました。でも,商品の企画とかすごいですね」

 「といっても,1年目のペーペーなんですけどね。今年社会人になったばかりです」

 溜まっていた息を一気に吐きだした。固まっていた両肩の力が少しだけほどけた気がした。

 「雑誌はもともと読むのが好きなんですけど,あと,流行とかも仕事的にチェックしといたほうがいいかなと思っていて」

 「それであれだけの量を持ち歩いているんですか? 1年目だからかもしれないけれど,すごいなあ」

 「なかなか,というか全然,成果に結び付かないんですけどね」

 そうなのだ。毎週数種類の雑誌を買って,新しいファッションとか商品とかチェックし,活かせそうなものをピックアップしているのだ。ピックアップしたものはノートに書き込み,アイデアとしてとっておく。その中からいくつかこれだと思うものを,先輩に相談してから会議に出すのだ。

 先輩や同僚はアイデアをほめてくれる。だから,それだから大丈夫だと思い,一気に企画書に落とし込んで行くのだけど・・・・・・。

 「自分で考えた?」

 言葉って,本当にナイフだと思う。もちろん実際に刺されたことなんて人生でないのだけれど,あの言葉を浴びたとき,何の抵抗もなく体にすとんとナイフが突き刺さっていくような感じがしたんだ。

 自分で考えた,だって。もちろん考えたからこそ,深夜まで資料を作り込み,家に帰ってからも発表の練習をしてまで会議に臨んでいるのだ。企画として面白いと思うからこそ,ここまで頑張っているんだ。それなのに・・・・・・。

 店内をゆるやかに流れていたBGMが終わったのか途切れる。少しの間の静寂に外を走り抜ける車の音が入り込んできた。

 視線をカウンターに落とす。光沢のある表面にいくつもの横線が走っていた。

 「頑張って企画を出すんですが,なかなか認められなくて」

 「商品として出すんだから,よっぽど難しいんでしょうね」

 「みんなに買ってもらえそうな,役立って面白いものをっていうイメージで,流行のものを一生懸命調べて出すんですが・・・・・・だめなんですよね。独創的じゃないって」

 「独創的じゃない?」

 「そう。『独創的じゃない』って言われるんです。それも,1回だけではなく,2回も3回も」

 言葉にしているうちに,じわりとチーフの顔が浮かんできた。メガネの縁から覗く新人にすら遠慮のない眼光。

 「その後で『自分で考えた?』って聞かれるんです」

 「自分で考えた?」

 「『自分で考えた?』って。読んだ雑誌で取り上げられていたものを,商品に活用できれば受けると私なりに考えて出しているんです。もちろんそのままパクリとかではないですよ」

 追っていたカウンターの横線がじわりと滲んでくる。

 「・・・・・・そうですか」

 そう言い残すと,男性はカウンターから離れて厨房の方へ向かっていった。

 BGMは途切れたままだ。無音だと,思い出したくもないのに今朝聞いたばかりの言葉と光景がありありと溢れ蘇ってくる。

 ああ,もう駄目だ。帰ろう。

 席を立とうとしたところで,男性が戻ってきた。

 「すみません。今日のランチは私が決めていいですか?」

 そう訪ねたかと思うと,私の返事を待つことなく手元にあったメニューは回収されてしまった。

 「いや,ちょっともう今日は・・・・・・」

 「あなたにぜひ食べてもらいたいものがあるんです」

 「でも・・・・・・」

 「そんなに時間はかかりませんから」

 そう言って,男性は厨房へと向かった。

 確かに一度店に入ってしまったのだから食べずに帰るのも失礼だ。

 私は仕方なく席に座り,男性が料理を作るのを眺めていた。

 

 大きめのフライパンを火にかけ,油を入れる。油がフライパンに馴染むのを少し待っている間に,冷蔵庫からテキパキと食材をいくつか取り出し,机にトントントンと順番に置いていった。かと思うと,しゃがみ込んで,調味料だろうか。何本か中身の入った瓶を次々と取り出しては机に並べていった。

 食材をテンポよくフライパンに放り込む。そのたびにじゅわっという音と蒸気が溢れてくる。熱気の中でフライパンが上下左右に揺れていた。

 男性の動きには無駄がなかった。無意識だが正確無比に調理しているように見えた。が,工場のロボットのように,決まった通りに同じ作業をこなすというものではなく,ダイナミックな動きもあってどちらかというと相手にあわせて踊っているような,楽しさというか,人間っぽさが伝わってくる踊りだった。

 なんか,かっこいい。

 男性の表情は,一見無表情だった。というよりは,真剣だったという方がしっくりくるかもしれない。目の前の料理に全神経を注いでいる感じだった。料理とだけ向き合い,会話しているようで,店内も,私の存在すらも一時的に忘れ去られているように思えた。

 料理つくるのが,心から好きなんだろうな。

 

 「お待たせしました」

 目の前に料理が運ばれてきた。頬をなでのぼる熱気。

 途中からぼーっとしていたので,完成したことに気づかなかった。

 「これは・・・・・・なんですか?」

 「ええと,オムライスです」

 「これが?」

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 確かに真ん中には黄色の薄い膜のような物体。卵で包んでいるのだからオムライスではある。ただ,覆いかぶさっているのは赤色のケチャップではなく,弾力のある透明なタレのようなものだった。

 そして,タレに浮かぶネギや白菜,しめじなどの色とりどりの季節の野菜たち。

 「中華風角煮オムライスです」

 「・・・・・・中華風・・・・・・オムライス?」

 「どうぞ。食べてみてください」

 手渡された銀色のスプーンを黄色の膜に突き刺すと,隙間から湯気がもくもくと立ち上がってきた。

 卵の膜と一緒にすくってみると,中から出てきたのはケッチャップ色の米粒ではなく,黄色の米粒で,チャーハンのような見た目だった。

 そのまま,口に放り込んでみる。

 !!!

 「あ,あ,あっつ〜い・・・!」

 「大丈夫ですか?」

 「・・・・・・はい。はい。はいひょうふでふ」

 はふはふと,熱気でなぶられる口の中では塩の効いた米粒とほのかに甘い卵が踊っていた。

 「おいひいへふ」

 「それはよかったです」

 男性は微笑んだ。

 お世辞でなくて本当に美味しかった。まわりのタレも旨味があふれていて,旬の野菜たちと絶妙な食感と食べ合わせを作り出していた。

 そして極めつけは,タレに沈んでいた角煮。炙られた豚の肉質から香ばしい香りが漂ってきて,噛むと口の中ですんなりと裂けては肉汁を舌の上にたらしていった。

 おいしい。

 昨日の昼から何も食べていなかったこともあり,無我夢中でスプーンを皿に突き刺しては口に持っていくのを繰り返していると,あっという間に2,3粒のチャーハンが残るだけとなった。

 「・・・・・・ふう」

 スプーンを皿におく。顔をあげて男性の方を見上げる。

 「ごちそうさまでした。本当に美味しかったです」

 「それはよかったです」

 「面白いですね。中華風オムライスって。チャーハンを包んでオムライスにみせかけて,中華丼のあんにつけるなんて」

 スプーンで取り残されていた米粒たちを端に寄せ,すくって最後の一口を味わった。

 幸せな気分だ。さっきまで,もう消えてなくなりたいくらい気持ちが沈んでいたのに。食べて糖分が補給されたから? いや違う。出してくれた料理がすごく美味しかったからだ。嫌なことを忘れてしまうくらい美味しかったからだ。

 

 「考えるの大変だったんですよ」

 男性は窓の方をみつめた。相変わらず外は寒々そうだったが,雨はやんだようだ。雲が途切れたのだろう。道路の路面が明るく見えた。

 「うちは2週間に1回はランチのメニューを変えることにしているので,本当に必死で考えますよ」

 男性は厨房を出て私の後ろを通り過ぎ,壁横の黒い機器に手をかけた。しばらくすると,先ほどまで流れていたBGMが再び聞こえてきた。

 向かい合うように元の位置に戻った。

 「かけあわせるんです」

 唐突な言葉に,しばらく男性の顔を見つめていた。

 男性は,口の端をちょっと上向けにして

 「自分が知っているありふれたものの中から,考えて,あわせるんです」

 「知っているものから・・・・・・あわせる」

 どういうことだろう。

 「そうです。そのために試すんです。何度も。何度も。考えては,試す」

 「あわせる・・・・・・」 

 男性の言った言葉を中で繰り返してみた。

 知っているものを,考えて,あわせて,試す。

 「中華丼と,チャーハンと,オムライスを合わせると?」

 男性が問いかけてきた。

 

 「あわせると・・・・・・中華風オムライス!」

 思わず両手でパチンと叩いてしまった。

 「そうなんです」

 「へーえ,そうやってこれが生まれたんですね」

 すっかり空になってしまった皿がなんだか宝物に見えてきた。

 すごいなあ。こんな今まで食べたことがない美味しいものをつくるなんて。料理人さんの頭はきっと頭の回転が早くてアイデアに溢れているに違いない。

 「創意工夫って,既存のもののかけあわせなんですね。料理なんて,誰でもたくさんの人がこれまでに作ってきて,誰も考えつかなかったような想像を超えた全く新しいものなんてないんですね。食材だってそうです。発見されていない食材なんてもうないんじゃないでしょうか。だから」

 「だから?」

 「だから,既存のものをあわせてみるんです。考えては試してばかりいると,これは!という当たりがいつか出てくるんです」

 そうか。自分の知っているものの中から,考えて試してと,試行錯誤することが大切なんだ。

 

 瞬間。

 頭の奥にビビっと電流が流れた気がした。

 目の前にしてなかなか思い出せない人の名前が急にでてきたような。

 テレビで流れる音楽が何だったか思い出せずにいたところ,終わる直前でタイトルを思い出すような。

 ピタゴラスイッチの玉が急に転がりはじめる。

 

 「そうか!」

 私はカウンター手をついて立ち上がり,叫んだ。

 「流行のものを取ってくるだけではダメなんだ。いち早く追いかけるのではなくて,むしろ,今あるものからから考えたほうが,近道なんだ」

 面白いものはなにか,役に立つものはなにかという視点で,ありふれているもの,身近なもの,でも結びついていないものから,あわせるんだ。でも・・・・・・。

 「アイデアは既存の要素の新しい組み合わせ,とアメリカの実業家も言ってますもんね。でも,なんでもいいというわけでもないんですね。頭の良い人ならそんなにかからないのかもしれないですけど,凡人だと,試行錯誤してみないと・・・・・・なかなかですね」

 男性の目を見つめる。柔らかい眼差し。

 そうか。だからこの人は・・・。

 私は静かに腰を下ろした。

 

 「ありがとうございました。私に教えてくれるために,ランチを決めてくれたんですね」

 「・・・・・・ほかに,おむボロネーゼとかあったんですが,中華風オムライスのほうがインパクトがあるかなと思って」

 男性は天井を見上げた。

 「以前の私も,最近の雑誌やらテレビのワイドショーやらで出てくる料理を見て,同じようなものを店で出してたんです。流行の料理をいち早く出して。でも,全然お客は増えませんでした。むしろ,常連さんからも飽きられて『これ,あの店でも食べたしなあ。こんなんじゃなくて,いつもの感じの,ここでしか食べられないやつ出してって』って。」

 「それから,今まで自分がつくってきたものを思い出して,何かないか考えるようになりました。そうやって考えてたら,ある日」

 視線をこちらに向けてくる。

 「あのレシピとあのレシピ結びつけたら面白いなあと思いついたものがあったんですよ。そのまま混ぜたらおいしくなかったので,味付けを変えたり分量を変えたりしていたら,おいしくて面白いものができあがったんです。試しに出したら,すごい受けてしまって。それからですね。ちゃんと自分で考えるようになったのは」

 満たされたおなかをさすってみる。

 「おむボロネーゼも食べてみたいです。でも,さすがに今日は無理です」

 「でしょうね。じゃあ,また2週間の間に来てくださいね。また新しいメニューに変わりますから」

 ええ,と微笑んでみせたところで,喉に乾きを感じた。そういえば,食事はとったが水分はとっていなかった。

 「すみません,何か飲み物をいただけませんか」

 しまったというような顔つきになった。

 「ああ,ほんとすみません。お水出すの完全に忘れてました」

 慌てて冷蔵庫の方へ向かう男性を呼び止めた。

 「せっかくなんで,紅茶とか,コーヒーありますか」

 「ええと,飲み物はこちらに」

 振り返った男性が先ほどカウンターの向こうに引いたメニューを再び差し出してきた。

 「ええと・・・コーヒーがいいんですが,温かいのはないんですか?」

 メニュー表のアイスコーヒーと書かれたものを見ながら男性に質問した。

 「そうですね,アイス用にしか作っていないんですが・・・」

 冷蔵庫の扉を開け,黒い液体の入ったボトルを取り出した。

 「こんなのでよければ」

 そう言いながら液体をカップに注ぎこみ,電子レンジの中に入れてボタンを押す。

 ノイズのような機械音が続いたあとに,チンとお馴染みの音。

 電子レンジから取り出したカップからは,温かい湯気と濃い匂いがのぼっていた。

 それは皿の上に載せられて,私の手元へと運ばれてきた。

 「ちょっと雑ですけれど,アイスコーヒをホットにしてみました。うまくいったかはわかりませんが,試行錯誤ということで」

 男性の顔は見たところで,吹いた。

 「ははは。教えてくれるだけじゃなくて,お手本までみせてくれるんですね」

 「お水を出さなかった分のサービスです」 

 2人から自然と笑みがこぼれた。

 私のために作ってくれた試作品に口をつけてみた。お世辞にも美味しいと言えるほどのものじゃなかったけれど,乾いた私の体にはじっくりと染み渡っていった。

 

 「天気も良くなってきましたね」

 大きな窓の外を見ると,先ほどと比べ一段と明るくなった。日が差してきたのだろう。

 私は男性の方に居直った。

 「今日は大変勉強に・・・じゃなかった,大変美味しいランチをありがとうございました」

 「少しは元気になりました?」

 少しどころじゃない。どん底だった気力と体力を一気に天井まで救ってくれた。

 「ええ。ちゃんとごはんは食べないとダメですね」

 「また食べに来てください。お代は・・・900円になります」

 座席の下のかばんの中から財布を取り出し,1万円札を抜き取った。

 「すみません。大きいのしかなくて」

 「大丈夫ですよ・・・って,ちょっと待ってください」

 1万円札を受け取らず,カウンターの後ろにある棚の引き出しをゴソゴソとしたかと思うと,小さな絆創膏を取り出した。

 「使ってください」

 「あっ,そんなことまで。すみません」

 よく見ると,お札を差し出した左手の指は少しだけ血が滲んでいた。

 いただいた絆創膏を貼る。ちょどよい大きさで,傷がしっかりと隠れた。

 「9100円のお釣りです」

 お釣りを受け取り財布をかばんにしまい,隣の席に無造作にほっておいたピンクのコートを広げて着る。袖口の汚れが見えたけれど,不思議と気にならなかった。

 「ありがとうございました〜。また来ます!」

 ここに来てよかった!

 

 かばんを肩にかけて入口のドアノブを回した途端,開く隙間からどっと冷たい空気が流れ込んできた。

 一歩外に出ると小雨はすっかりやんでいて,雲は薄くなり隙間から少しづつ太陽の光が降り注いでいた。ひんやりとはしているけれど,暖かさを感じる。

 深く息を吸ってみた。湿気があるけれどちょっとだけ爽やかな空気が体に入ってくる。

 連絡しなきゃ。

 私は,コートの中のスマートホンを取り出した。

 右手の人差し指で着信先を探しだし,電話のマークをタッチする。

 耳に当てたスマートホンから3回目の呼び出し音が鳴ったところで,つながった。

 「大丈夫? どこにいるの!?」

 聞き慣れた先輩の声。心配してくれている声。まゆをひそめた表情が浮かぶ。

 「すみませんでした。今から戻ります」

 「だから,どこにいるの? 大丈夫なの?」

 「家の近くなんですが,もう大丈夫です」

 「ほんとに?」

 「ほんとです」

 しばしの無言。胸をなでおろすような雰囲気が伝わってきた。

 「・・・・・・そう。でも,もう今日は家に帰って休んだ方がいいよ」

 「いや,ほんとに大丈夫です」

 「・・・・・・昨日も遅かったし,あまり寝ていないんでしょ。今日ぐらい休みなさい。チーフもそう言ってるから」

  えっ? 社会人にもなって,耐え切れずに会社から逃げ出したのに? 

 「チーフが?」

 「そうよ。頑張っているのはわかってるけど,疲れた体では何も考えられないって」

 「・・・・・・そうですか」

 「だから,今日はゆっくりしていいから」 

  先輩もそこまで言ってくれるのなら,甘えてもいいかな。

 「・・・・・・わかりました」

 「あの,今日のチーフの言葉はあまり気にしなくていいから」

 「え?」

 「あのあと,『今日のはまあまあよかったんだけどな』って言ってたのよ」

  えっ? なにそれ?

 「でも,だって・・・・・・」

 「チーフはどうやって考えだしたのか聞きたかっただけなのよ」

  そうなの? 本当に? それならそうと,早く言ってよ。

 「そうだったんですね」

 先輩の声を聞きながら,肩の力が徐々に抜けていくのがわかった。

 ・・・・・・やっぱり,チーフが悪い。

 「だから,また明日でもお話しましょう」

 「はい。わかりました」

 「じゃあ,気をつけて帰りなさいよ」

 「あの・・・先輩!」

 「ん? なに?」

 「・・・・・・電話していただいて,ありがとうございました」

 「いいのよ」

 「それと,明日からは・・・・・・すごくいいものを見せてみせます」

 「うん。その調子。じゃあね」

 通話を終えたスマートホンをコートにねじ込む。

 ちょっとだけうるんだ目尻を指でぬぐった。

 

 明日から頑張ろう。

 もう,きっと大丈夫だ。

 

 家の方へと歩き出し信号を渡ったところで,後ろの方からから声が聞こえてきた。

 振り返ると,お店の男性が何か手に持って喋っている。

 「忘れ物ですよ〜」

 雑誌がいっぱい詰まったトートバッグ。

 しばらくは,使わないかな。

 「お店に置いといてください!」

 「このバッグは?」

 「また取りに行きまーす!」

 返事を待たず,私は再び家の方へ勢いよく歩き出した。

 

 パシャパシャ。

 パンプスが水たまりを跳ねるたび冷たかったけれど,心地良かった。