ZIG ZAG WALK

おもしろきことは,よきことなり。

【延岡妄想日記】春霞の先に

そこにあるはずの志賀島が,なかった。

 

今宿インターから都市高速環状線外回りに入る。

流れる車の列は橋桁の奥に吸い込まれるように百道浜に向かって下っていき,またすぐに登り始める。

右手には福岡タワーが空に突き出るようそびえ立つ。

左手には海原の向こうに志賀島と続く海の中道が見える・・・はずが,今シーズン初の黄砂に,霞んでいるというより,影も形もなかった。

 

「黄砂ってこんなひどいんやなあ」

「この時期は仕方ないよ。洗車するだけ無駄だ」

黄砂を全身に身にまとったみすぼらしいコバルトブルーパールの車は,大阪から来た友人を送るため福岡空港へと向かっていた。

「関西でも黄砂はあるときはあるけど,ここまでひどうないで」

車は荒津大橋の頂上まで登り,すぐに眼下に広がる天神の街へと突き進んでいく。

「関西か。九州から出たことないからどんなとこかわかんないな」

「夏にでも来いや。色々連れてったるで」

マリンメッセの横には大型のクルーズ船が停泊していた。近くで見れば巨大なビルのようにも見えるだろう。

大阪も東京も,あんなビルばっかりなのだろうか。

そう思う時点で,福岡に出てきたとはいえ田舎者だなあとつくづく思う。

千鳥橋ジャンクションを右にぐいっと曲がり,すぐに左レーンへと進入する。

都市高速を通って博多駅方面にはあまり来ないため,気をつけないととんでもない罠にかかってしまう。

右レーンを走っていると,いつの間にか博多駅東で降りるレーンに変わってしまうのだ。

右に左に,遮音板に囲まれたレールを進んでいく。

 

「そういや,引き出物頼んだ?」

大阪の友人が手をシートの後ろで組みながら聞いてきた。

「うんや。カタログどこいったかわからんくなった」

「はよ頼まんと,催促のはがきかなんか来るらしいで」

「そうなん? なら探さんといけんね」

遮音板の向こうに着陸する飛行機の姿が見えたかと思うと,視界が開けた。

といっても黄砂が風景を遮蔽して,ちょっとした先も霞んで見える。

「もう2ヶ月たつんやな」

友人のつぶやきを心の中で反芻していた。

もう2ヶ月立つのか。

随分昔のようにも思える。

延岡での友人同士の結婚式に参列した日のことを。

 

「早いなあ」

「うん」

大阪の友人が顔を向けてきた。

「ちゃうで」

「何が?」

「結婚のことや」

都市高速の出口が見えてきた。アクセルを緩め,そっとブレーキに足を載せかえる。

慣性の法則に徐々に抗い,車のスピードも流れる風景もゆったりとしてきた。

「働き始めて5年で結婚とか,今のご時世なら早いんちゃうか」

「そうやろうね」

「俺はとても無理やな」

「なんで?」

「なんでって,まだ遊びたいし。だいたい家庭を持つとか,他人の人生に責任を持つとか自信ない」

「へー。そうなんだ。自信ないとか全然見えん」

「仕事もまだまだやし。なんかなあ,色々この先どうなるんかなあという不安あるけどなあ。お前はそんなんないん?」

「僕は・・・」

返事をしようとしたところで,轟音とともに目の前をまさに着陸しようする飛行機が通過していった。

 

 

「ほんま,ありがとな。地下鉄でよかったのにわざわざ送ってくれて」

「ええよ。途中駅で下ろすほうがめんどかったし」

ロビーの上に掲げてある表示板を見つめる。そろそろ時間のようだ。

「さて,そろそろ行くわ」

「ああ。また来てくれよ」

「そうやなあ,次は実家帰るときかなあ。8月くらい?」

「時期が合えば,一緒に乗せて帰るよ」

「ほんま? 助かるわ」

搭乗開始を告げるアナウンスが流れた。

「じゃあね」

「また連絡するわ」

大阪の友人は手を振ると,保安検査所へと向かっていった。

 

さて,帰るか。

頭上の時計を見たところ,4時を過ぎたところだった。

出口の方に向かおうとして,自分を呼ぶ声に気づいた。

振り向くと,大阪の友人が検査所の前で手招きしていた。

「ごめん,忘れとった」

大阪の友人は大きめの黒い布製のかばんから何か包みを取り出した。

「はい,大阪土産」

渡された箱の表紙には「面白い恋人」と書かれてあった。

「どや,おもろいやろ」

「はあ? なんで今渡すん?」

「いや,どこになおしたかわからんくなってもうてて。キャリーバッグの中探したけど全然見当たらへんかったと思ったら,こっちのかばんにあったわ。すまんすまん」 

全く悪びれた様子もなく謝ってきた。

「あ,そうそう」

「まだなんかあるん?」

右手をかばんの中に入れて,ごそごそと目当てのものを探しているようだ。

「・・・・・・ちょっと待ってな・・・・・・。あ,あった」

そう言って,かばんからまた何かを取り出した。

「これ」

渡された箱の表紙には,先程のものと同じく「面白い恋人」と書かれてあった。

「は?」

「ごめん,渡しとって」

「誰によ?」

「そりゃ決まっとるやん」

 

大阪の友人は,僕の左肩をポンと叩いた。

その表情はやけにニヤついていた。

この表情はどこかで見たような・・・・・・。

 

「黒髪さんによろしく」

「な・・・・・・!」

大阪の友人の一言で,遠い日のように感じていたあの日の記憶が一気に蘇ってきた。

「同じ福岡に住んでるんやから,すぐに会えるやろ」

「そうやけど・・・・・・」

「そうや。次来るときは,3人で延岡帰ろうか」

「・・・・・・」

「いや,やっぱ邪魔しちゃ悪いかな。って,もう時間や。ほなな〜」

「あ,ちょっと待てよ!」

大阪の友人はそそくさと保安検査所の中へ逃げ込んでいった。

唖然とする僕の両手に,2つの同じお土産を残して。

 

 

国内線ターミナル横の駐車場に停めていた車に乗り込み,エンジンをかける。

シフトレバーに左手をかけたところで,ポケットのスマホが鳴った。

取り出して相手を確認する。

「あ」

自分以外誰もいない車内に,驚きの声が響いた。

しばらく画面を凝視した後,右手の人差し指をスライドさせる。

「・・・・・・もしもし」

「もしもし。久しぶり」

確かに,声を聞いたのは2ヶ月ぶりだ。

が,思い出した記憶のせいで,僕にとっては久しぶりの感じが全くなかった。

「今何してるの?」

「・・・・・・空港」

「空港? 珍しいね」

僕は「黒髪」に,ここ2日間大阪の友人が仕事がてら遊びに来ていたことを話した。

「で,私は誘ってくれなかったわけ?」

「あいつが来る日になって連絡してきたから。急やったし」

「ふうん」

怒気を含んでいるような気もしたが,いつもこうサバサバとしているからそうでもないかもしれない。

 

「それで? 何の用事?」

「何の用事って,用事があるから電話してるのよ」

そりゃそうだろう。

それにしても,なんでこんなにつっかかかってくるんだろう。

普通に話せばいいのに。

電話の先の表情を思い浮かべてみる。

ストンと流れ落ちる黒髪に,凛とした冷静沈着な眼差し。

そんな彼女が見せた,あの表情・・・。

「ちょっと,聞いてるの?」

「あ,ごめん」

「だから,実家から『ひでじビール』が大量に送られてきたから,今日飲まない?」

「え?」

「どうせ今送ったところだろうし,このあと予定ないでしょ?」

「そうだけど,どこで飲むの?」

「今から車で戻るんでしょ? そっちでどう?」

「いいけど,うちの場所わかんの?」

「わからないからLINEで送って。つまみも適当に持っていくから」

 

車は来たときとは逆向きに荒津大橋を登っていた。

下道で帰ろうと思っていたが,彼女が来る時間を考えるとそんな余裕はなかった。

視線を博多湾に投げてみる。

あいかわらず海の先はぼやっとした白色に包まれ,カタチあるものは何も見えない。

急に,向こうから連絡してくるなんて。

正直いって,よくわからなかった。

 

2ヶ月前のあの日あのやりとりの後,結婚披露宴で僕と彼女は隣同士の席になった。

大阪の友人が直前に僕と彼女にやった質問のせいで,ひどく緊張していた。

何を,どう話したらいいのか,わからなかった。

あのとき彼女が一瞬みせた表情は,僕にひどい勘違いがないとすれば,僕にほんのミジンコくらいかもしれないが,「気がある」というものだったはずだ。

これまでモテたことなどない僕の自意識過剰かもしれない。

でも,もし全く気がないのなら,いやほんの少しくらいの気持ちであったなら,大阪の友人に対し彼女なら鼻で笑って一蹴していたはずだ。

しかし,違った。

まさか,何かの間違いにしても僕に対して気があるかもしれないとは。

僕の方は,そのときまで全く,本当に全く彼女のことを意識したことはなかった。

その日まで,かなわないにせよ新婦に向けられていたのだから。

彼女は5人の仲良い友達の1人だった。

けれど,今になって思えば,あの中で一番遠慮なく話ができたのは彼女だった。

ふたりとも,どちらかといえば一歩引いているような人間であり,雰囲気も表よりは裏が似合いそうな人間であり,服装も似たように地味だった。

単に似ている者同士,話しやすかっただけなのかもしれない。

しかし,それまで見たことなかった表情を見てからは,急に,一瞬にして,彼女の身振り素振りが気になりだした。

漆黒の髪に,引き込まれるように。

白くて細い指先に,からめとられるように。

首元の月のペンダントに,夏の夜の明かりに群がる昆虫たちのように。

だから,その日は実家に帰るまでひどく緊張していた。

けれど,披露宴の席で,二次会の席で,彼女と会話をすることはなかった。

 

次の日になれば酔いも覚め,あの時のことは何かの間違いだったのだと思った。遊びの中の思わぬ偶然の一致に少し照れただけなのだと思った。

だから,福岡に戻ってからはいつのまにか忘れてしまっていたし,福岡に引っ越したという彼女にも特段連絡することはなかった。

半年後か1年後,5人で再会したときにでも,これまでと同じように話くらいはするのかと思っていた。

しかし,この後二人だけで会うときに,僕はどんな表情をすればいいのか,いや,今までどんな表情をしていたのかもわからなくなっていた。

 

車は降りるはずの愛宕インターを,いつの間にか通り過ぎてしまっていた。

 

 

約束の5時過ぎに,インターホンが鳴った。

ぼやけたインターホン越しの彼女と思しきシルエットを画面に捉え,オートロックの解除ボタンを押した。

しばらくして再び呼び出しの音。

「やあ」

「久しぶり」

開けた扉の先に,彼女はいた。

黒色のゆったりとした七分袖のカットソーに,直線的な七分丈のスカート。真っ黒のパンプス。

2ヶ月前に会ったときと同様,全身黒づくめだった。

外の明るい景色がかき消される。5月の陽気な天気には似合いそうもない。

 

狭く短い廊下に招き入れる。

そういえば,女性を部屋に入れたのは初めてだった。

彼女は両手に持った荷物をリビングのテーブルにどんと置くと,奥の窓から見える景色を眺めていた。

「いい見晴らしね。今日は全くだめだけど」

「夏は,目の前で花火大会もあるんだ」

「そうなの?」

「うん。ところで,自分はいつ福岡に引っ越してきたん? 聞いてなかった」

「去年の秋かな」

「まだ1年立ってないんだ。少しは慣れた?」

「・・・・・・まあね」

少し間を置いて返事があった。

彼女が振り返る。

踊る銀色をした月のペンダント。

「そうそう。実家からたくさん送ってきたの。とても1人で飲み切れそうにないから」

彼女がテーブルの上の保冷バッグを開けてみせると,中から小瓶が10本近く出てきた。

「こんなに?」

「これでもまだ一部。2ヶ月前の結婚式のときに飲んだビールが美味しくて,実家で話してたら,わざわざ送ってくれたの。どうみてもやりすぎの量だけど」

「瓶を見てたら飲みたくなってた」

「そうね。早速はじめましょう」

僕はキッチンの方へと向かった。

2ヶ月ぶりの再会だったが,緊張することもなく,今までと同様に自然な会話ができていたように思う。

彼女の方も,いつもの感じだった。

そのことが逆に,僕の気をほんの少しだけ沈めた。

 

キッチンの上の棚からグラスを2つ,引き出しからソーサーを2つと栓抜きを1つ,食器棚から小皿を2つ取り出す。

リビングに戻ると,床のクッションに座った彼女が小瓶を2つテーブルの上に用意して,あたりを見回していた。

「何?」

グラスを渡しながら聞いてみる。

「思いのほか片付いてるなと思って。だってほら,大貫町の太陽の家に初めて行ったとき,すごく汚かったじゃない」

太陽とは,2ヶ月前に参加した結婚式の新郎のことだ。

「男の人の家って,どこもあんな感じと思ってた」

「あいつちょうど落ち込んでた時期だったから,片付けるのも手につかなかったんじゃない?」

実際はいつ行っても散らかしっぱなしの家だったのだが,なんとなく真実は伏せておいた。

「ふーん。そんなもんなんだ」

僕もクッションに座る。彼女とは向かい合わせになる形になった。

「それにしても,暗い部屋ね」

あらためて部屋を見渡せば,カーテンはグレー,テーブルは黒を基調としたモノトーン,テレビ台一式はブラック。小さめのソファは黒の革張りで,窓際のラックはエボニー調だ。ついでに今座っているクッションもグレーと黒のチェック。

「落ち着いた色と言ってほしいな」

「黒ばっかり」

「自分だってそうだろ」

「何言ってんのよ。私の部屋来たことないでしょ」

「そうだけど,服装見てたらわかるよ」

「服装はね。でも,住んでいるところは違うかもしれない」

「なんで?」

「人に見られたいイメージと,自分が見たいイメージは違うんじゃないかな」

「服は人の目線を意識してるということ? 考えたことなかったな」

自分の服を眺める。グレーのジーンズに黒シャツだった。

今さらながら,彼女の服装のことを季節に合わないなんて言えたもんじゃない。

「アンタはそうかもね」

「僕の何がわかるんだ」

「とにかく,外に現れていることだけが全てではないってこと。さ,早く開けちゃいましょう」

不満げな僕をよそに,彼女は栓抜きを手に取った。

「はいどうぞ」

「は? 僕が開けんの?」

「え? ゲストは私よ。それにビールもおつまみも私が用意したのよ。ついでくれたっていいじゃない」

「そうですね」

もはや僕達は5人で過ごした大学時代,離れ離れになって半年に1回再会したとき同じ感じに戻っていた。

残念ながら結局のところ,僕の勘違いだったのかもしれない。

そうなら,いつものようにすることにした。

今日は,いつもように仲のいい親友とビールを楽しむことにした。

 

彼女から栓抜きを受け取り瓶の口に引っ掛ける。瓶を支える手のひらは思いのほかひんやりとした。

少し力をこめただけで,王冠はテーブルの上に転がった。

両手で傾けた彼女のグラスにビールを注ぎ込む。口から流れ出す瓶ビール独特のトクトクトク・・・・・・といった音が,ビールの味と期待を増加させる。

グラスの天井を泡が塞いだところで自分のグラスに注ごうとすると,彼女の白く細い指が瓶を奪った。

「場所と時間を貸してくれたお礼」

無言でグラスを差し出す。彼女のほうが注ぐのがうまかった。

「じゃ,乾杯」

カン。

乾いた音に続いて彼女はそそくさとグラスを口元に近づけ,そのまま流し込む。

「これ美味しい」

僕は手に持ったグラスをしばらく眺めていた。

「飲まないの?」

「いや,普通のビールと比べて,かなり濁ってるなと思って」

グラスの中の色は,一般的なビールのように鮮やかな色をしているわけでもなく,かといって黒ビールのように闇のような黒色でもなく,白ビールのように春を思わせる爽やかな色をつけているわけでもなく,かすみがかかったように濁っていた。

彼女と同じように,口元に近づけ,味わうように一口含み,喉奥へと飲み込んだ。

目をつむってみる。さわやかな初夏を思わせるビールの味に混ざって,ほんのりと感じる雑味。

すっきりとした喉越しに,一瞬にして過ぎ去っていく酸味。

それらは反発するでもなく,かといって完全に融合するわけでもなく,おしゃれな服のワンポイントの刺繍のように整った形で,一段上の味を醸し出していた。

「うん。美味しい」

目を閉じたまま僕は呟いた。

「きんかんが入ってるんだって」

瓶を包むビニール製の包装に添えてあった解説を見たのだろう,そう彼女は言った。

 

「・・・・・・か」

「え,なに?」

目を開けると,彼女が空になったグラスを手にして尋ねてきた。

「ん?」

僕は保冷バッグから瓶ビールを取り出し,栓を開け,彼女のグラスに注ぎ込む。

「いや,今なんか言わなかった?」

「なんか言ったかな」

「そう。ならいいわ」

僕のグラスが空になると,今度は彼女が注いでくれた。

 

そうやってお互いグラスを空にしては相手のグラスに注ぎあっているうちに,机の上には空の瓶が増えていった。

「はー」

つぶやきながら彼女が体の後ろに両手をついた頃には,空の瓶は6本になっていた。

会話もさほどなく黙々と飲んでいたためか,まだ1時間しかたっていなかった。

窓の外に視線をやっても,暗闇はまだ見えない。

「美味しくて,一気に飲んじゃった」

「うん。全然飽きない。まだ飲めそう」

「待ってよ。残り少ないからゆっくり飲みましょ。つまみだってあるし」

つまみすら手をつけず,二人してひたすらビールを飲んでいた。

コンビニのマークの付いたビニール袋からは,スナック菓子やチョコレート,せんべいにチーズ,サラミにさきいかと,あらゆるつまみが出てきた。

「これ食べたい」

「懐かしいでしょ」

赤い袋を裂き,甘ダレのついた薄っぺらい「蒲焼き」を噛みしめる。

「うん。懐かしい。全然『蒲焼き』食べた気がしない」

「アンタ,太陽の家で飲むときはそればっかり食べてたからね」

「あの頃はほんとお金なかったから」

大酒を飲み酔いつぶれる家主。ひたすらしゃべり続ける友人。笑顔をふりまきながらうなずく女性。ビール片手に淡々と冷静に突っ込む彼女。そして,飲んでは食べ続ける僕。

たった5年かそこら前のことなのに,大学で過ごした4年間がひどく懐かしい感じがした。

「覚えてる?」

彼女の方に目をやると,7本目の瓶ビールを自分でグラスに注ぎ込んでいた。

「みんなで阿蘇に行ったときのこと」

「・・・・・・うん。それこそ始まりは,太陽の家ではじめて飲んだときじゃなかったっけ?」

空のグラスを差し出すと,なみなみと注いでくれた。

「そうそう。あいつが失恋してみんなで慰めてたら,突然『阿蘇行こう! 阿蘇行こう!』って。それで行ったのよね」

片肘を机につき手のひらに頬を載せる彼女の横顔が,ほんのり赤くなっているのが目に入った。大学時代,毎日酒を飲んでいた彼女にしては珍しいように感じた。

「日取りも,途中に寄る場所も,泊まる場所も決まって行く一週間前になって,『俺そんな話したっけ?』と言ったときは,ほんとうに殴ろうかと思ったよ」

酔いが回ってきたのかぼんやりとしてきた。

彼女と同じように片肘を机について顔を支え,もう片方の手でビールをあおる。

「酔ったときに言ったことだから覚えてないってのには,さすがの夏も呆れてたね」

「そりゃ呆れるよ。確か,家族旅行をやめて阿蘇に行くことになったんだから」

ドラマのようにわざとらしく両腕を腰にやって,太陽に向かって不満をいう夏が思い浮かんだ。

それから太陽と夏が結婚して子どもまで生まれようとしてるんだから,人生どうなるかなんてわからない。

僕は彼女の方を見た。

僕の場合にしても,まさか福岡の自宅で彼女と二人きりで飲むとは思わなかった。

ただ,仲のいい友達として飲むだけなのだが。

彼女は8本目のビールに手をかけようとしていた。黒い袖口から延びる真冬の雪のように白い腕は瓶を優しくからめとり,もう片方の腕の白い指先が瓶の口をなでたかと思うと,パチンと瓶の口が花開いた。

「それでね。言いたかったのは,夜のこと」

「ああ,夏が誤って花火の袋に引火したやつ?」

「はは。そんなのもあったね」

開いた瓶を手に取り,彼女のグラスに注いだ。

彼女も酔いが早く回ってきたのだろう。いつもなら見られない種類の笑顔が出ていた。普段は笑っても声と口だけで目はおろか眉も動かさないような感じなのに,昔の思い出に浸るその赤みがかった顔は,赤ん坊をあやす母親の笑顔を返されたときの喜びにも似ていた。

こんな表情するんだ。

「あれもひどかったよ。よりにもよってロケット花火の束に引火して,みんな必死で逃げたもんな」

「そしたら・・・ふふ」

これまでも,酔っ払って笑う姿を何度か見たことはあったが,破顔した彼女を見るのは初めてかもしれなかった。

「はは・・・・・太陽の頭に当たって・・・はは・・・丸くハゲたんよね〜ははは」

確か,突然の戦争が終わり元の場所に戻ってみると,みんなから遅れて頭を押さえた太陽がやってきたのだ。

「『大丈夫』って,夏が申し訳なさそうに太陽の後頭部を見た途端,急に笑いだして」

「『何?』って私も見たら,ミステリーサークルができてたんよね」

「失恋旅行のはずが,さらに追い打ちかけたもんな」

「週明けて大学であったときは,坊主になってたし・・・ん? なに?」

ほころんだ彼女の顔に見とれていたので,目線が合ってしまった。

艶のある漆黒の髪に覆われた端正な顔は,いつもは暗闇に溶け込む黒猫のように容易に人を寄せつけない表情をしていたが,目の前のそれは警戒心を解いてごろにゃんと飼い主に甘えるように,目をゆったとりして柔らかく微笑んでいた。

 

ドクン,と心臓の音。

 

「・・・ううん」 

そう言って,瓶ビールを自分のグラスに注ぐ。机の上の空のビール瓶は8本になっていた。

「・・・そうじゃなくて,夜空のこと」

彼女は両腕を枕にして頭を横に置いた。するすると透きとおるような黒髪が,机の上になめらかにすべって広がる。

なんだか指で触れたくなった。

いけない。

僕は足を伸ばして両腕を後ろに付き,天井を見上げる。白い天井に丸い照明が1つ,部屋の中を薄く照らしていた。

目を閉じると暗闇の先に声が聞こえてきて,いつかの記憶がスクリーンにおぼろげに映し出されてたかと思うと,僕は吸い込まれていった。

 

吐き出された先も,暗闇だった。

あの日,バーベキューを片付けてシャワーを浴びた後,すっかり日が暮れたコテージの外に出てみると,暗闇の空のいたるところに光が輝いていた。

雲ひとつ見当たらない夜空を覆い尽くすような星々は,真上から地上すれすれまで均一に散らばっていた。

けれど,ひとつひとつの明るさはまちまちで弱々しいものもあれば,はっきりと見えるものもあった。

僕らはコテージの入口の前にある木の囲いによっかかり,思い思いに見上げていた。

「うわあ・・・・・・すごい」

夏の,心の底から感嘆するような声が聴こえる。

「こんなにも星ってあるんやな。街では全然気づかんかった」

太陽が左手で後頭部を押さえながら見上げてつぶやいた。

その肩を,就職して大阪に移り住み,似非大阪弁に染まってしまう前の友人がぽんっと叩く。

「見ろよ。気づかないだけで,世の中にはお前の知らない数多の女性がいるってこと。何も悲観することはないのだ」

「そうか。そうだよな。あの中にも俺の運命の人がまだいるってことだよな」

「そうそう。チャンスはまた降ってくるってことだ。今度は逃がさないように掴んどくんだな」

太陽は,大阪の友人と右腕で肩を組んで,今まで後頭部を押さえていた左腕を,届きそうもない夜空に向かって意味もなく突き上げていた。

その向こうには苦笑する夏の顔。二人の姿に呆れているようでいて,なぜだか知らないがどこかほっとしているような笑みだった。

 

「こんなに賑やかな夜空は見たことないかも」

僕の隣でつぶやいていたのは・・・・・・彼女だった。

「うん。たくさんの星を一度に見たのは,初めてかもしれない」

延岡の自宅のベランダから見る夜空はどんなに晴れていても,両手で足りるほどの明かりしか見つけることができなかった。それが眼前では,所狭しとひしめき合っている。

「でも,あの星々は実際にはお互いとんでもなく遠いところにいるんだから,寂しいかもしれないな」

彼女が振り向いた。半乾きの黒髪が離れまいと白い頬にくっついている。

「面白いこと言うのね」

僕は囲いに両腕を置き頭を乗せた。

「それに,今僕らが見ている光は,何光年も先からやってきてるだろうから,ずっと何年も何十年も,いやもっと前に放たれた光かもしれない。ひょっとしたらもうあの光を出している星々は,今この瞬間には存在していないのかもね」

「私達こうやって満開の星空を見て騒いでいるけれど,実は何もない暗闇を見てる可能性があるってこと?」

「そう」

夜風がそっと吹いて,落ち着いた黒髪をわずかに動かす。

「なんだか悲しいね」

つぶやくように彼女は弱々しく言った。

「せっかくの雰囲気,壊した?」

「いや,言ってることはわかる。でも・・・・・」

彼女はふうとため息をつき,きらめき続ける空へと視線を移す。

「せめてあの星々の目には,同じ夜空が広がっていてほしいな」

何かを期待するような,でも少し物憂げに微笑む彼女を,僕はしばらく見つめていた。

 

 

気づけば当たり一面真っ白になっていた。そして真ん中に白くひときわ輝く光。

何度かまばたきしてみると,見慣れた光景であることにようやく気づく。

いつの間にか寝てしまっていたようだ。

寝転んだまま頭をずらして壁にかけてある四角の時計を見る。9時を随分と回っていた。

起き上がってみると,テーブルの向こう側で彼女がすっかり暗くなった窓の外をぽつんと座って眺めていた。

暗闇ににぽつりと,ぼんやりと半分に欠けた月が見えた。

彼女が振り向く。

「ごめん。ちょっと寝てた」

「私を放って3時間近く寝てて,ちょっととはなによ」

「自分も寝てたんじゃないの?」

「ちょっと,うとうとしただけよ」

僕は彼女の頬に腕の跡を見つけたのを逃さなかった。

「その顔についている跡は?」

「え・・・・・・。しらない」

彼女はまた窓の方に顔を向けてしまった。

ずいぶんと寝たせいか,頭ははっきりとしてきた。すっと立ち上がり,キッチンの上の棚から新しいグラスを2つと,冷蔵庫からペットボトルの緑茶を取り出した。

リビングに戻ってくると,彼女も立ち上がっていてベランダへと続く窓へ色白の手をかけていた。

僕は元いた場所に座って2つのグラスに緑茶をつぎ,1つを手に取り一気に飲み干した。

「窓,開けていい?」

「いいよ」

開け放たれた窓からは,心地よい海風が流れ込んできた。

窓際のカーテンとともに,艶のある黒髪がさらさらとそよいでいる。

「福岡タワーもこんな近くに見えるのね」

僕のところからは見えないが,彼女の目には真っ暗な夜空に先端とちょっと下が淡白く光っているタワーが見えているだろう。

 

「で,さっきの話だけど」

「さっきの話?」

阿蘇で見た夜空のこと」

「ああ,満天のきれな星空だったね」

しばらく月を眺めていたかと思うと,ふうと彼女はため息をついたように見えた。

「福岡じゃ全然見えないね。地上はこんなに明るいのに」

「深夜でも真っ暗になることないから」

カーテンがパタパタとはためいて音を立てる。

「・・・月一つ。孤独ね」

僕は体勢を変えて座りなおした。

「そういえばあのとき,夜空の星々は実際にはずっと遠く離れてるって言ったよね?」

彼女は夜空に向いたまま言葉を続ける。

「離れてても,まだ見えてたらいいのにね。見えないのは,孤独で・・・・・・」

さっきまでの声とは異なり,吹き込んでくる風にそのまま流されてどこかに行ってしまうような,弱々しい声だった。

そこで,ようやく気づいた。

彼女は生まれてからずっと過ごしてた地元を離れ,昨年の秋に福岡に来たばかりだった。

福岡には何度か遊びに来たことはあっただろうが,友人も家族もいない,仕事も生活も何もかもが一からのスタートだったはずだ。

彼女は一人で,寂しかったのではないか?

今日僕の家に来たのは,2ヶ月前の結婚式で見せた関係の続きではなく,単に気の置けない友人に会いたかったからではないのか?

必要ないのに,心のなかでがっかりする気持ちと寄り添ってあげたい気持ちが交錯する。

 

「そうかな」

僕は背筋を伸ばし姿勢を整えて,後ろ姿に声をかけた。

「確かに見えてないかもしれない。遠く離れてるかもしれない・・・・・・でも,繋がってるんだ」

彼女が振り向いた。背後の夜空と同化しそうな胸元に,ちいさな月が揺れていた。

「僕らみたいにさ。別に今目の前にいなくったって,また皆で会えるだろ?」

「・・・・・・」

いつもの鋭い目が,ほんの少しだけ柔らかく滲んでいるような気がした。

「あのとき皆と見た星空を覚えてるんだろ? 僕にも今もちゃんと記憶に残ってるよ。あの頃の楽しかったときのことを思い出せるなら,一人じゃないんだ」

彼女は立ったまま,僕の方を見つめていたままだった。

「僕だって,福岡で生活をはじめたときは,わりと寂しかったさ」

「・・・・・・アンタでも?」

「うん。でも,どうせ半年後に会えると思ったら,やっていけたよ」

僕は視線を落とした。空の瓶ビールのラベルが目に入った。

ああそうか。

瓶ビールを手にとって持ち上げ,ふりふり振りながら彼女の方へラベルを向けた。

「思い出と感謝」

「・・・え?」

きょとんとする顔。

「きんかんの花言葉だよ。飲む前に言おうとしたのはこの言葉だったんだ」

「そうなの? よく知ってるね」

そういえばなぜ知っているのか,そしてなぜ無意識に浮かんできたのか,不思議だった。

僕は瓶を逆さにしてビールグラスに傾けた。

23滴落ちただけだった。

「・・・・・思い出,飲み干しちゃったね」

口元が少しゆるむ。彼女が微笑んでいるように見えた。

その表情を見て,安堵や懐かしさとともに,じわりと胸の奥がやけるような熱さを感じる。

もしかしたら僕は・・・・・・。

 

「そろそろ,帰るね」

彼女の視線の先にある壁の時計をみると,10時を回っていた。

「そうだね。明日仕事やし。自分は?」

「もちろん」

窓を閉め,彼女が戻ってきた。

「御手洗,借りるね」

そういって机の横を通り抜けようとしたとき,彼女の足に何かが,ちょうどよく何かが,当たったというか,引っかかった。

「あ」

声を出すより衝撃が早かった。

どすん。

 

気づいたら,目の前が真っ暗だった。

いや,真っ暗なのは周りだけで,僕の目のほんと先,人差し指の長さもいらない距離に,彼女の目があった。

鼻という2つの丘がひっくり返って今にもぶつかりそうだった。

ほんのりと生温かい吐息,やんわりと頬を撫でる髪,そしてとろけてしまいそうなほのかな花の香りを感じ,触れ,包み込まれた。

聞こえるはずのない鼓動がお互いに聞こえ,見えるはずのない想いがお互いに流れていったき気がした。

一瞬の出来事だった。

でも,よくよくあとで考えると,決して自惚れているわけはないが,それは条件反射的には終わらず,数秒,いや少なくとも56秒,存在を意識的に維持しようとした空間だったと思う。

彼女は体を起こし立ち上がった。

立ち上がった瞬間,まだ開けていない瓶ビールがころんと転がった。

謝罪も困惑も嫌悪もなかった。

無言だった。

彼女は持ってきたバッグを手に取り,そのまま玄関の方へと向かっていった。

僕も遅れて立ち上がり,玄関へと向かう。

彼女はうつむいたまま靴を履いている。

「駅まで送ろうか」

「いい」

「本当に?」

「いい。大丈夫」

「まだビールが2本残ってるよ」

「いい。あげる」

そう言ってドアノブに手をかけ,止めた。

「ありがとう」

「うん。こっちこそ」

彼女がほんの少しだけ斜め振り返った。

「・・・・・・また来ていい?」

忘れもしない,2ヶ月前のあの日の赤らめた顔が,そこにあった。

「もちろん」

 

ドアの向こうの靴音がなくなった後も,僕はしばらくドアを見つめていた。

そしてふと思い出し,窓際のラックに置いてある箱を手に取った。

「・・・・・・面白い,恋人か」

渡しそびれてしまった。

でも,また近いうちに会えるんだよな?

仲のいい友人として?

ドクン,と心臓の音。

 

残していったおつまみや空き瓶,グラスを片付け,床に転がっていたビール瓶を取り上げる。

「春霞ヴァイツェン」と印字されたビール。

机を拭きながら窓の方を見上げると,月はまだそこにあった。

拭くのを途中でやめて,窓を開けベランダに出る。

月はまだぼんやりとしていた。

明日の黄砂は大丈夫だろうか。

彼女が言うように,ここでは夜空に輝くのは月ぐらいだ。

目を閉じると記憶にははっきりと浮かぶ。

胸元の小さな月。

霞む先はまだ見えない。わからない。

「同じ夜空が広がっていてほしいな」

彼女の声と髪が触れた頬を,そっとなでた。

 

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<続く>