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おもしろきことは,よきことなり。

「対話」に必要なモノと,「対話」の根底にあるモノ ~「公務員を語る。公務員と語る。」を体験して~

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先週の金曜日に行われた「公務員を語る。公務員と語る。」に参加したので,当日の状況を思い出しながら少し振り返ってみたいと思う。

 

https://www.facebook.com/events/241767593003093/

 

「公務員志望の大学生と現役の福岡市職員がテーマフリーでぶっちゃけ本音トークをぶつけ合う」企画ということで,大学生相手に何を話そうか,何を尋ねようか考えながら会場に向かった。

イベントの場所に行ってみると,公務員が約20名,学生が約10名,社会人が約10名と,本来なら大学生を迎え撃つ側の職員・社会人のほうが多いという,まさかの事態であった。

加えて,職員も福岡市だけに限らず,近隣の自治体から関東の自治体まで,事務職も,教員も,学校職員も,といった多彩な顔ぶれで,知り合いはごくわずかであった。

 

しかし,イベントは2時間みっちりのトーク続きで,時間を忘れるくらい,また会場のエアコンが全く効かないくらい,熱気に包まれたものになっていた。

終わった後はみんな何かをやりきった感があり,最後に行われた振り返りでは,貴重な体験ができた,参加して良かったなどの感想が寄せられていた。

 

その振り返りの中で気になったのが,『「公務員」と「民間」の境界線をあまり感じなかった。一緒だ』というような意見が複数出ていたことだ。

しかし,僕の感触ではむしろ,やっぱり「公務員」と「民間」,「社会人」と「学生」は異なる存在であることを再認識していた。

 

行政機関と私企業では(定義上の)目的は異なるし,そこから(業として期待される)人物像も考え方も異なる。

社会人と学生では,(広義の)「労働」と,「勉学」のどちらにウエイトを置いているかで生活様式も異なる。

また,人の生まれつきの性格,育った環境,これまでの体験,学び得た知識,営んでいる事業,就いている地位・・・こういったものが人それぞれを形作っている中で,職業や社会的地位といったものは,比較的現在進行形のものでありオフィシャルなものであって,個人のうちで重要なウエイトを占める。

だからなのか,意識的か無意識的かはわからないが,話す中身で触れた勤務条件や職務内容といった具体的なものに見られる差異だけでなく,参加者の話し方や間のとり方,視点,考え方といった点にも違いが見受けられたように僕は感じていた。

 

人は似ているものに対して,より好感を感じ,親近感を抱き,受け入れやすくなる。

作業だって会話だって何だって,クラスタが同じあるいは近い方がやりやすい。

 

すると,この異質の者同士の場で,参加者の「境界線を感じなかった」という感想はどこから来たのか。

自分とは職業も背景も異なる初対面の人間同士が,2時間も会話が熱気に成立するエネルギーはどこから来たのか。

 

それは対話の土台が,職業や社会的地位といったレベルから距離を置いた,一人の人間その個人にフォーカスしたものだったからだと思う。

 

今回は最初に述べたような参加者の構成もあってか,トークのテーマは一般的で普遍的なものとなっていて,「公務員」を中心に置いたものはあまりなかった(だから,期待していたものと違うと思った学生も中にはいたかもしれない。)。

しかし,そのおかげで前提であったはずの公務員・民間人・学生という区別が,話し合う中で薄れてしまったように思える。

 

加えて,例えばテーマとして「今自分がやっていること」について語りあうのと,「やってきたことで一番辛かったこと」について語りあうのでは,聞く方の共感の度合いが違う。

前者が個別的なことであるから理解に当たり前提として情報の有無が重要なのに対し,後者は人生の経験としてある程度想像可能で誰であっても擬似的追体験ができるだからだ。

だから一人の人として相手に対し親近感が湧くのだ。

 

また,あるテーマ・事柄について語るときは,「それについてよく知らない」以前に,人はあらかじめ程度の差はあれ既存の知識,体験から好き・嫌い,肯定・否定といったポジションを持つ。

日常的に公務員に無関係な人にとっては,響きだけでなんとなくネガティブなものが出てきそうである。

そのため,話し合いになると,無意識にもお互い自分のポジションに沿うような言い方,捉え方がどうしても出てしまう。

それが,公務員であろうが民間人であろうが大学生であろうが,「その人」個人が前面に出た状態で語り合うと,そういった傾向が緩和されるように思える。

 

つまり,「対話」というものは,テーマや参加者の背景,負っているものではなく,参加者の個人にスポットを当てることがはじめの一歩ではないだろうか。

そうすることで立場や地位といったものは場から奥に引っ込み,様々な背景を持ちながらも一人の人間同士として話をすることができるようになる。

 

そう。

対話には,テーマに対して当事者性が不要なのだ。

いや,無くすことが求められるとまで言ってもいいと思う。

 

これは,主に仮想空間を舞台とした不毛かつ不要な言い争いの処方せんにもなる。

主義や主張,一部の行動を切り取って,論点ではなく人格を否定する方向に向かうことのどれだけ多いことか。

また,主義や主張そのものにも無知や誤解が多いことこの上ない。

人はいかに知ることを捨てたのか。

 

正しい知識を持つことは議論のそもそもとして大事である。

その上で議論に集中するためには,相手への人間としての理解,尊敬が必要だと思う。

それを産み出す手段というのが対話である。

そして効果的な対話というのは,当事者であることから離れた,一人の人間としての参加である。

その効果的な対話を具体的に実現足らしめるのは,膝を突き詰めた少人数での,「日常的な」語り合いではないか。 



ちなみに,僕がこのイベントに参加した理由は極めて単純で,今の日常生活であまりなじみのない若い人たちと話したかったからである。

 

3年前に参加したときは,ほとんど若い人ばかりであった。

バイトに遊びにと青春を謳歌していた彼ら彼女らの日常は,30代の僕からすればまだまだこどもであった。

ところがどうだろう,今回話をすることができた大学生の中には,起業や,NPO 活動メインの生活を送っている者もいて,正直驚きだった。

しかしこの驚きの原因は,前回得た知識に固定され,学生に対してステレオタイプ的な見方をしていた,思い込んでいただけではないか。

 

明るくない分野は定期的なメンテナンス,アップデートが必要である。

つまり,メガネと同じである。

僕は目が悪く,裸眼では10cmより近くしか見えない。

風呂に入るときも危ないのでメガネを使用していて,寝るとき以外はずっとかけたままである。

だから,すぐに汚れしまい頻繁に拭かないといけないし,悪いことにまだまだ視力が悪くなる一方で4年に一度はレンズを変えないといけない。

そうしなくても生きてはいけるけれど,とても不便なのだ。

モノの見方,捉え方も同じだと思う。

適切な時期に適度な調整が必要なのである。

 

そんなことはおいておいても,(僕にとって)知らない世界の人と会うこと話すことは非常に楽しいことである。

もちろんそんなことしなくても生きていける。

同時に付き合える人数は100人が限界と聞くし,限られた人間関係でも生活上・仕事上で困らないかもしれない。

だから,いわゆる「内に籠る」姿勢を,否定したり揶揄することも無理解であると僕は思う。それは単なるスタンスの違いでしかない。

 

一方で,やっぱり思い込みや知らないことは,損である。

精神的にも物理的にも,(いつのまにか)世界が広がるからだ。

人間は誰しも程度の違いはあれ,知ることの喜び,「知りたい」という欲求を持っている。

インターネットも登場しSNSもある現代は,「知りたい」欲求を満たすコストが著しく低くなっている。

大した告知もせずfacebook のイベントページだけで世話人も含め50人近くの参加者を集めたのも,「知りたい」欲求を手軽に満たすことができる場だったからなのかもしれない。

結局のところ,対話がめざす理解とは,「知りたい」欲求,つまり「好奇心」が根底にあるのだと思う。

 

相手に対する理解は「好奇心」だと気づいた,花金の飲み会を断って参加したイベントであった。

主催者は今後少なくとも年1回,いやもっと多く開催したいと言っていたので,参加したことが無い方は,ぜひ一度体験してほしい。

 

<終>